池大雅

友人と池大雅美術館へ行った。
足袋を履いた幸福地蔵のある鈴虫寺を訪れた後、苔寺と呼ばれる西芳寺に向かう途中で見つけた、小さな私設美術館である。

その古い洋館の扉には鍵がかかっていた。しかし扉の硝子の向こう側に貼り紙があり、インターフォンを押して欲しいとのこと。果たして管理人らしい女性が現れ扉は開かれた。

建物は旧く、展示室内は外気同様に冷えきっていた。
出てきた女性はかなり高齢らしかった。彼女は室内に灯りを付けたが作品の入っているショーケースだけ明るくなっただけ。暖房も小さな石油ストーブ一つだけだから、随分寒かった。

展示品は自然の風物を描いた書画と書と、作者ゆかりの記録や品々。池大雅は初めて聞く名前だった。友人は大学時代の先生を通じて知っていると言う。書をゆっくり見ることは、かなり無為の境地に近いらしい。
友人の足音だけが耳に入る。気が付けば、体が凍えていた。ストーブに手をかざし、冷えた指先を温めてここを出ることにした。玄関であの女性が、何か質問は無いかと聞いた。何か聞かないと悪い気がして、池大雅の人となりを聞いてみた。
女性は私達を池の墓銘碑の写しがあるところへ案内した。彼女の外見の年齢(6〜70位か)には似つかわしくない声と知性に暫し引き込まれることとなった。墓曰く。
池大雅は、天才であった。にもかかわらず高い倫理性を備えていた。市井で民の一人として生き、妻や仲間を大切にした。その生き方は道教に支えられたという。話は、和光同塵という成句にインテグレイションされていった。
存在と虚無は表裏をなし、光の下では同じく溶けあう。それが森羅万象のありようであると。

私達は美術館を後にした。暮れていく道。友人にもらった温かい缶コーヒー。じゃが芋が丸ごと入ったフランスパン。

なかなか夜にならない。