旧友へ

書かなければならない。
という思い込みを知らない間に忘れてしまっていた。
気がつくと、毎日のようにことばを重ねている友人とは時間も居場所も隔たっている。

太陽に照らし出された海の表面が好きで、その変幻自在なイメージを追っていると、真後ろ、天上、雲の切れ間から届く日光と無色透明の水の間に発生する無数の出来事が自分自身の中にあることのように親しみを感じる。

そのようなイメージ(様式)が、こんなに怠惰な私をどこかからか呼んでいる。

これを無用なレトリックと言い切れない。

今年の夏、私は生駒山脈を、また、九度山(橋本市)から西笠田(かつらぎ市)まで紀ノ川に沿って何度か歩いた。

季節が春から夏へと変わった。そのたびに道端の植物は変化した。花が咲き、葉の色が変わった。それが時の流れだった。

ぬかるんだ道の岩の陰にいた無数の羽虫は私を追ってきた。静寂は生の中にはなく、常にわめき、まどろみながら貪り、私は流れる大量の汗に負けまいと何リットルもの水を飲んだりした。

今、冬になり、その季節が再び巡り来ることを心から待ち望んでいる。

一本の線が引かれているこの道を単純にたどれないらしい。

道は道として予め整備されており、標識や信号機に従えば概ね安全に目的地は近づく。

厄介なのはその線で、まずその意味が解らない。人に聞くと人それぞれの解答があり、またいくつかの傾向があるように理解できるのだが、依然として決定的な納得はない。

ひとびとは口々にそれは人生のようだ。運命のように不可解だと言ったきり、口をつぐむように今までの饒舌が河原の石ころのような運命論に変わる。

目的地まで読む文庫本の内容のように私は短い間に充溢した確実な一方向への時間の流れを期待して左手で線を握り、人の道から外れた。これはその記憶の再現ではなく、今も目を離すことのできない線の行方である。

長い商店街を歩いている。いつまでたっても出口が見えない。道の両脇に連なった商店のほとんどは閉まっている。今は深夜だからだ。

あなたの見ているものは全て夢なのです。私はもういませんから。

生鮮店、衣料品店、飲食店、沖縄や韓国の物産店、マッサージ店、古本屋、スーパー、パチンコや考え得るありとあらゆる店が出揃う。私にはお金がないから、あまり用のない場所だが、何度もひきつけられている。