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A. 彼が作り出すものは増殖しあふれ出し、面妖に変化しつつ空間を跋扈する。 「グチック」のコンセプトを聞き、作品を見た時、私が連想したのは、我々には感知できないもう一つの次元に存在する何ものかだ。それはちょうど、映画「禁断の惑星」における潜在意識の怪物か、「スターウォーズ」におけるフォースの暗黒面か、漫画「風の谷のナウシカ」におけるトルクの皇兄の亡霊のような存在である。 グチックとは山岡氏の分身、または生き写し、あるいは映し鏡、はたまた時空の割れ目から溢れ出てきた化身じゃないか?と思ってます。その言葉自体もまた、「愚痴っ苦」と変換すればほろ苦く、また「グティック」ではなく「グチック」なとこが山岡氏の人柄のようです。一見すると、強面のようにも、しかし、クマのプーさんのようにも見える山岡さんのルックス。人は見かけによらずとかいいますが、グチックは、その見かけによらずな世界を我々に提示してくれる何かしらのとっかかり、あるいは鍵穴のような存在である気がします。そして最近のグチックの形状は、どんどん山岡氏本人に似てきてる気もしてます。 グチックとは、人の無意識の集合体ではないだろうか。 街に、地下に、様々な場所に出現するグチック(の断片)に出会うたび、私はそう感じてしまう。常に変化する全貌を実際に見ることは叶わないが、きっと作家の筆先がグチックの輪郭に触れるその一瞬間だけ、私達にその姿を見せてくれているのだろう。 「絵に描いた餅」が、時に本物よりも香ばしく感じられるように、グチックは現実よりもより強い現実感を発する。 グチックとよばれている一連の作品は、可視あるいは不可視な、気配と存在の中間にある何か、だと考えています。 忍び寄る夢。消え行く欲。 もともとグチックには個体差があり、さらにそれを感じる個人差があります。私はグチックに出会う度に、自分の心境や体調を再確認するような気持ちになります。 山岡さんのグチックは「形を探すこと=絵を描いてくこと」と私は理解しています。2008年頃だったでしょうか、大阪市立大学付属病院に入院している子ども達を対象にした「グチック」のワークショップを山岡さんにしていただいたことがあります。学校ではないので一斉に説明する時間もなく対象年齢もさまざまで、皆が「グチック」を理解したか、そもそも説明を聞いていたかさだかではありません。しかし、来る日も、来る日も子ども達によって「形を探し」と同時進行で、さまざまに「絵が描かれる」こととなりました。そのワークショップでは、いくつかの「ミラクル」めいた出来事も起こりましたが、詳細はまた別の機会に記したいと思います。 黒いバリウムの味はイチゴかチョコレート。醤油じゃないと思う。 何処かの賢人がのたまった。『人間の目に映るこの世のすべての事象は比喩にすぎない』と。しかし『例外の無い法則は無い』とも云うではないか。 そうですね、私はとくにグチックが好きです。サウスポーですから。 グチックとは、線によって表されるカタチである、という。ということはつまり、これは絵画の要素そのものであり、そして彫刻の要素そのものでもある。グチックが通常の絵画やドローイング、彫刻とひとつはっきりと異なるのは、それが生物のように成長したり衰退したり、常に変化を続けているという点である。 ぼくは、20歳の頃から「自他の境界」について問い、身体を通してずっと考えてきた。でも最近は、自然体というものに近づけば近づくほど、その境界はうすれていくと思うようになってきている。グチックにも、そういう見方だ。 グチックについて改めて考えました。グチック・グチック・グチック、、、。真面目に考えました。で、出てきたモノが、いろんな意味で山岡さんの頭でした。 今から14-5年前のことになるが、知人等の制作した喜劇の筋立てに、悪徳デヴェロッパーが地域を買占め、「ドイツ哲学のテーマパーク」を造ろうとする、というものがあった。その企ては地域住民の抵抗に破れ、野望に終わり、眼前に示されることはなかったが、そのアイデアの余りの在りえなさに、眩暈を覚え、また笑ったのだった。 幼少の頃に母に何度も読んで聞かされ、その後自分でも読み返して何度も空想の世界に浸った忘れられない物語がある。その名を「はてしない物語」(ミヒャエル・エンデ作)と言う。映画化されて知名度を高めたが、実のところ物語の肝となる「虚無」という存在について、映像ではとてもその雰囲気を完全に表すことは出来なかったと思っている。 世界の認識モデルとしてのグチックは、同時にこの世界を構築する生の欲動のメタファーにも思える。山岡さんは都市を覆うそのエネルギーの片鱗を現実空間に口寄せる霊媒師だ。 約10年前、今は無きとあるギャラリーで見た最初のグチック。 こたつに入ったとき、足に当たります。 幼い頃からずっと夢に見続けてきた怖いものがいる。といってもそんなに怖いわけではなく、めちゃくちゃ怒っているとか絶対襲ってくるとかではなくていつもいろいろな場所にただ佇んでいる。時々ビル程に大きく向こうが透けていたりすごく薄かったりする。しみのようなものだ。あゝいるなと思うだけだ。ただ何となく辛気臭いので幼かった私は「怖いもの」という記号を与えて親しんできた。そんなはずはないけれどふと何やら「嫌な」予感がして首筋やら胃のあたりがそわそわし、否やっぱりそんな筈はないと気を取りなおして半笑いで振り返ると「あゝやっぱりそうだったのか」 グチックはすべて嘘である。大きな海に浮かぶ波と太陽の熱を思わせる完全なる嘘っぱちだ。 描いては消し、消しては描く。その繰り返しの中に彼の制作がある。ではそこに現出と消滅を繰り返す「かたち」とは一体何なのだろうか? グチックとは視界の裏側と自分の裏側をつなぐパイプであり、そのせめぎ合いである。 彼のノーブルな映像作品の中で、本当のかたちを求めてダンスする。ぼんやり見えていたドローイングのタッチが立ち止まり、リフレインし、ジャンプし、自在なステップの地平から立ち現れるかたち。出来事の痕跡が身体の跡として、それはフィクションを超えた、あるべきはずの世界なのだ。その上でまた繰り返されるダンス。拡張される意識と世界。そして私たち。 カタチ のない カタチ。 宇宙は目に見える(観測することができる)物質は約4パーセントにしか過ぎないという。残りはダークマター(暗黒物質)と呼ばれる光学的には観測できない未知の物質なのだという。ダークマターとは、光も電波も発することがなく、目にも見えない物質で理論上の仮説とされている。だが、その質量が引き起こす現象から宇宙に存在する物質であると言われている。 鉛筆で宇宙をなぞろうと、途轍もないことを企てた誇大妄想家がいる。彼がつかんだ宇宙のしっぽ、それがグチックだ。 グチックって「グチックじゃない物」じゃない物の事なのかな? グチックにはどうやらスケールが存在しないらしい。 あらゆる存在の内側にも外側にも、存在しない存在があり、それらは感じとる事しかできないのですが、時折、偶然に像や音として表出する事がある。多くの表現行為がそうなのかもしれませんが、グチックもまた、それらを捉まえ確認しようとするシャーマニックな行為のような気がします。 目には見えない GUTICとは何か?と聞かれても、はっきりとは答えられないですが、いぜんPARCで「これは布ですか?」とたずねた時、はじめてGUTICが少し、僕の中で顔を出した。そんな気がする。 たとえば地球をわぎりにした時に 現象するものやことの彼方から意識を引っ張る力。あるいはその力がたまさか表した形相。 |
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