生活記 1

阿漕海岸は伊勢湾に面した全長二kmほどある広大な砂浜である。
三重県庁所在地、津市の東岸にあたり、付近は閑静な住宅地が防波堤を隔てて広がっている。
そこには私の住まいがある。一人暮らしである。軽自動車が主な移動手段で、通勤や買い物に利用している。
休みの日には、よく海辺を歩く。ここに移って間もない時期は、友人達が、海辺の生活をめずらしがり、時折訪れては、海で遊んで帰って行ったものである。数年経ち、労働に追われる生活となり、今は時々一人で砂浜を歩く程度だ。

伊勢湾は大抵穏やかである。砂浜に打ち寄せる波も大人の膝を越えるものはめずらしいようだ。かつては、ゴミや流木などの漂着物が散乱した汚いところだったらしいが、ボランティアの努力によりみちがえっているらしい。ゴミの類はほとんど眼に留まらず、無数の貝殻と海草、いずこから漂着した流木が点点とある。

ここは昔、御贄所(おにえどころ)と言われ、その沖合は神聖な海域だった。そのため禁漁域となっており、密漁した者は死罪となった。

「阿漕」は、付近の漁村に住んでいた漁師の名前が由来と言われる。阿漕平治(平次)という名の漁師は、病の母へ体に良いと言われた矢柄(ヤガラ)なる魚を食べさせるため、夜な夜な禁じられた網を引いた。やがて、その密漁は役人の知ることとなり犯人の捜索が始まった。その矢先、平治が不注意にも自身の編傘を浜辺に置き忘れたため、彼の罪が立証されて捕えられた。彼は死罪を言い渡され、簀巻きのままどこかの海に沈められたという。
「阿漕ぎな」とは、この伝説より生まれた言葉といわれる。母思いの男が掟を破った罰のために海に沈む。今でも「アコギな奴だ」などというが、その言葉にひそむ非情な様は、現代にも受け継がれているのか。

ある夕刻、私はショッピングセンターで買物していた。その日の食事と生活用品をもとめるだけの細かな買い物なのに、もたもたと売り場を彷徨っていた。
それは暇つぶしではなかった。なぜなら数ヶ月前に私は小さな出会いを経験した。人間達との限りなく薄っぺらでいて堅固な関わりの中で、微かな裂目を感じることがある。その一つを私は大切にしようとしたらしい。
彼女は、私より10歳年下である。
別に私の浮ついた日日の独白をするつもりはないので、話はまた変わる。

津市街地より南へ数kmの所に久居(ひさい)という町がある。その街の山間で、近年、地元有志の団体が里山を蘇らせたという。
そんな記事を読んで、里山とは何か。さらに里とはなにかと考えたが、心当たりが無かった。それでも、里という言葉は、山里、里見、里子と言った姓名にもしばしば表れるように日本人が古来親しんだ言葉である。
また別の話だが、阿漕海岸では、秋口に月見大会が盛大に行われる。来迎名月会という名前だったかしら。その目玉は、世阿弥作『阿漕』の上演。浜辺に能舞台が設営されるそうだ。

彼女の母は病んでいると聞いた。時折、そのため彼女がなんだかんだ動いていることも知っている。
次第に雨脚の強くなる帰り道、そんなことを思いだした。自宅まで近道できる線路沿いの細道を歩いていると、伊勢行快速列車が水煙を巻き上げて通り過ぎた。

私は、ある晩おやすみのメールを送った。
今日は少し寂しいから君と話した色々なことを思い出している。また会って君と話したい。
翌日、売場で客の応対をしている彼女を見て、少し可愛らしい所があるなと感心した。小さな声が聞こえた。何を言っているだろう。私は疲れたからそのまま遠くからお別れして、帰って眠った。
翌朝、メールが届いていた。私の楽しい経験は、あなたも喜んでくれるでしょ?
わたしはそうだ、とうなずいた。

時間は無情に流れた。ふと私は多くの借金を抱え、関係ないが彼女とは会えなくなった。
私はぼんやりしているだけ。それも今だけ。執行前における束の間の平安か。
彼女は忽然と消えた。不自然な出来事だった。
今となって気付くのだが、彼女と出会い、会話を重ねた日々はとても静かだったようだ。
最後に彼女と会ったのは9月のある土曜のこと。この日は短い時間で分かれたが、彼女も私も、また…と思ったはずだ…。

昔、聖が夜道を歩いていると、泣きながら歩く童を見つけた。捨て子か迷子か、あるいは叱られて家を飛び出したのか。いやいやこの辺りは、人を惑わし魂を奪う怪が出ると聞く。気安く話しかける訳にも行かないだろう。そう考え、聖は、身に付けた平安成就の鈴をそれとなく外し、音が出ないように、帯の中に押し込んだ。何を考えたのか、声を出し始めた。手まり歌、狗を叱り追い払う声、仲睦まじく語り合う兄弟の声。個人の中からではなく、地面の奥の空洞に響き地上に洩れ伝わるような奥行きのある声。子供ははたと立ち止まり聖は手を合わせた。
私はそんな滑稽な作り話を考える程、私自身と他者とのつながりのことを理解することができなかった。
その時、時空は過去に向かった深い深い象徴的な陷井をうがっており、子供はその前に立ちすくんだようだ。その本能的な賢明さに聖は安心した。どうしたと声をかけた。子供は意外な事実を告げたようだが、聖は穏やかに彼の前に杖を立て、しゃがみこんだ。
いかり肩の姉さんが髪をふりたて、何か叫んでいる。鬼に騙されて気がおかしくなったらしい。いつも優しくて、いろんな食べ物くれたりした。お姉さんとお話する時か一番楽しみだった。
聖は静かに頷いた。その方も人の子。一日十里なんなんとする途を探り探り東へ進んでいた。そんな訳であるいはうつつを離れ、子供の夢の世界へ我が身を預けたもうたか。

続く